おおきく振りかぶって 小説 『ホントのエース』

おおきく振りかぶって(おお振り)から、三橋廉の小説です。


コミック未収録話(月刊アフタヌーン2008年2月号)のネタバレを含みますので、未読の方は充分にご注意下さい。



おおきく振りかぶって

※美丞大狭山戦、9回表西浦の守りのシーンを掘り下げた小説です。


『ホントのエース』


 乾いた金属音。 


 その時、三橋はスパッと鋭利な刃物で全身を一閃されたような感覚に襲われた。


 五感を閉ざされた暗闇の只中に放り込まれたように、何も見えない。何も聞こえない。何も感じない。それは瞬きをするくらいの間の刹那の時間――


 幻影のような一瞬を脱した時、ただ見えたのは、ライトスタンドに突き刺さる白球だった。綺麗な放物線を描いたボールが、外野席の芝生に落ちる音を聞いた。肝を冷やした時のゾッとするような感触が両腕を駆けめぐった。
 インコース低め、ボールからストライクになるシュートボール。コースも高さも完璧のはずだった。
 それなのに、軽々と、いともたやすく打たれてしまった。4番の和田にはこの試合2本目のホームランだ。もはやこの4番には、癖球のストレートも、多彩な変化球も、針の穴をも通すコントロールも、三橋の投球が全く通用しないことを完全に露呈してしまった瞬間だった。


 誰もいないライトスタンドを見つめる。ずっと見つめていたら今のホームランが無効になる――もしそうだとしたら、1時間でも2時間でも、三橋はいつまでもその無人の空間を見続けていただろう。けれども現実はそんなに甘くない。事実は覆せない。夢や幻想は、一瞬にして熱気漂うマウンド上で溶けるように消えていった。


 視界の隅の隅の方で、ナインが呆然としている様子がおぼろげに映った。花井も泉も栄口も沖も、空虚な人形のように立ちつくしている。三橋はそれらを直視しないようにして、バックスクリーンにあるスコアボードをうつろに見上げた。


 11-5。


 回は9回。絶望的な点差だった。


「やられたな」


 いつの間にか田島が隣にいた。


「た――うん」
「大丈夫か?」


 田島のかける声も、心なしか元気がない。受け取ったボールは何だかいつもより重いような気がした。


「うん。オレ、大丈夫、だよ」
「……がんばろうな!」
「うっん!」


 肩を組んで励ます田島のキャッチャーメットがゴチンと頭に当たる。ゆらり漂う汗臭さが鼻腔をかすめた。遠ざかる5番の背中。三橋は何だか映画館のスクリーン越しに見ているような変な距離感を感じた。


 “田島くん、ごめん。”


 直接謝る勇気もない。田島だけじゃなくて、ナイン全員に頭を下げなくちゃという気持ちだった。もちろんそんなことはやろうとしてもできないのだけれど。


 ――それでも試合は動いていく。投球しなければならない。投手というポジションは、他では味わえない充足感をむさぼれる場所でもあり、永遠に続くかのような残虐的苦痛にじっと耐えなければならない場所でもあった。


 三星の時も、こんな風に大差がつくことは結構あった。
 その時だって、やっぱり悔しくて、いたたまれなくて、やるせないどうしようもない気持ちになった。だけど、心のどこかにあきらめのような、悟ったような気持ちがあったことも事実だ。


 “オレはヒイキでピッチャーやってて、バカみたいにマウンドにしがみついてて、三星のミンナはそんなオレを見てどんどん離れていった……”


 静かに大きく深呼吸する。


 “……でも、今は?”


 “ヒイキでやってるんじゃない。本当の意味で1番をもらった今は?”


 6番の宮田が打席に入る。三橋は田島のサインを覗き込んで軽く頷いた。


 “スライダーを外低め。”


 左足を上げ、全身をほんの少しだけ丸めるようにして、三橋は第1球を投げた。


「ボッ」


 “アレ、は、ずれちゃった。”


 田島のサインはストライクだ。けれども、ボールはわずかに外角寄りに外れた。


「打たせろー」
「ナイピッチ、ナイピッチ」


 バックの声に耳を傾けながら、少しだけ乱れ気味の呼吸を整える。次は――


 “まっすぐ、真ん中高め。”


 マウンドのプレートの感触を確かめつつ、第2球を投げる。


「ボッ」


 だが、わずかばかりボールは高めに浮いた。


 “お、かしいな……”


 次の球もその次の球も、まるでベースの上を通るのを嫌がるかのように、ボールはストライクゾーンを外れた。ストレートのフォアボール。意図的なケースを除いて、こんなにストライクが入らないのは初めてだった。


 “は、いらない……”


 特にこれまでと何かが違っている感じはしない。でも結果が伴わない。疲れ? 精神的なもの? 西浦の希望を打ち砕いた和田のスリーランが、三橋の精密なピッチングを狂わしているのかもしれなかった。


「三橋、打たせろ! 後ろに任すんだ!」


 田島の檄が飛ぶ。気持ちのこもったボールが、三橋のグラブにパンッと収まった。


「おー、打たしてけー!」
「バッチ、こーい!」


 こんな内容でもみんなは声をかけてくれる。それなのに、無様なピッチングしかできない自分が歯がゆかった。


 “オレがだめな時は、阿部くんが教えてくれる。でも……”


 次のバッターの鹿島が打席に入った。ロージンを手に呼吸を整える。田島のサインは真ん中のまっすぐだ。真ん中でも三橋のまっすぐなら打ち取れるという田島の読み。


 頷いて投げる。


 “まっすぐ、真ん中! ……今度は大丈夫、だ!”


 キィンッ


 狙い通り鹿島が打ち上げて、ふらふらと上がった打球がセカンドへ飛んだ。栄口が捕球体勢に入り、三橋はそれに応えられるよう、二、三歩踏み出した――


 “!!”


 ボールは栄口のグラブを弾いて、三橋の目の前を跳ねた。ギクリとして慌ててボールを拾いに行く。だが、取った時にはバッターランナーは一塁ベース上に、一塁ランナーも二塁ベース直前まで到達していた。


 1死一、二塁。魔が差したかのような、グラブの土手に当ててしまう普段なら起こりうるはずのない凡エラーだった。


「ごめん!」


 顔面蒼白の栄口。


「ド、ン、マイ!」


 今のプレイが何でもないように、三橋も必死にフォローする。


「つ、次はちゃんと取るから!」
「う、うん!」


 守備位置に戻る栄口に視線を送りながら、三橋は思った。


 “キンチョウだ。栄口くんもオレも……”


 ふらつくようにマウンドに戻る。


 三橋にとっては当たり前だが、そこに怒りはない。ただ、決して守備が下手ではない栄口が、目を瞑っても取れるようなフライを落としたという事実に煩悶した。


 “阿部くんいないから、キンチョウ……栄口くんも、阿部くんいないから?”


 手に取ったロージンをギュッと握る。


 “阿部くんのせいなのか?”


 桐青戦の後の練習で、栄口に言われた言葉がふと脳裏をかすめた。


「三橋が投げられなくなった時点で、うちは負けたも同然――ってイミだよなあ」


 瞬間、三橋は自分だけ別世界に取り残されたような感覚に襲われた。同じ球場にいるはずなのに、このマウンドだけ見えないベールに覆われて、自分の姿形が周りからは見えなくなってしまったような非現実感。


 “そうだ、オレは……”


 三橋は思い出した。この感覚は、周りのみんなが遠ざかっていくような感覚は、頭の中が麻痺していくような感覚は、心が寂しいと悲鳴をあげるような感覚は、全て三星の時に体験したそれだった。
 苦しいような、切ないような、走って逃げて転んで、それでも追いかけてくる得体の知れない恐怖感。心の奥底にしまい込んで蓋をして鍵をかけた、埃をかぶった宝箱。


 “あの時……ミホシにいた時……オレは何もしなかった。周りがどう思ってるか知ってて、それなのにピッチャーやりたいからって、何も見なかったことにして、聞かなかったことにして、オレはただマウンドでボールを投げてただけなんだ。チームのことなんか考えてなかったんだ。自分のことしか頭になかったんだ。そんなの……そんなのピッチャーじゃない。そんなのエースじゃない。”


 時間が戻る。空気が戻る。霧が晴れていく。視線が定まっていく。


 三橋の中で何かが吹っ切れた。


 “阿部くんのせいなんかじゃない。オレのせいだ。オレがしっかりしなきゃダメなんだ。オレがエースなんだ。”


 深く息を吸った。うつむく栄口に向かって、チームメイトに向かって。


 “声、出せ!”


「ワンナウトーー!」


 お腹に力を込めて、ありったけの勇気を開放する。今、三橋ができることを、精一杯の力で。


「ワンナウトーーー!」


 さらにボリュームのある声が、背後からビリビリと両肩を震わすほどに響いた。田島のかけ声に思わず振り返る。途端にまたしても背後から、どっと奮励の声が湧いた。


「ワンナウトー!」
「おお! ゲッツー、ゲッツー!」
「バッチこーい!」


 震える栄口の声。落ち着いた巣山の声。軽やかな泉の声。
 三橋の一声を合図に、バックを守るナイン達から次々と湧き起こるネバーギブアップの意思表示。


 三橋は打ち震えた。


 “オレがみんなを落ち着かせられる。オレが大丈夫なら、みんなが大丈夫。”


 三橋は、今のこの瞬間を全身で感じ取った。三星では決して味わうことのなかった、でも本当は三橋自身が追い求めていた充実感を。


 “オレが、エースなんだ!”


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